私は今人生最大の局面に直面している。  緊張のあまり汗が滝のように流れ落ち、熱で意識が朦朧とするひど いありさまだ。この緊張は、夢のために学園の入場試験に挑んだ時よ り以上に違いない。『明日世界が滅びますよ』と某不世出の魔法使い に告げられても、このドキドキはないだろう。
 これはまずい。喜びと不安、好奇心と恐怖、興奮と緊張、 会いたいという気持ちと逃げだしたいという願望。相反する 意思がせめぎあい、体が引き裂かれそうだ。行きたい心と行 きたくない心を二つにわけ、別々に体に宿らせることができ ればどれほど楽だろう。
 どこぞの変人、ではなく高名な魔法使いの偉人なら可能に ちがいない。が、若く未熟な上に半獣人の自分には、精神関係 と具現化の連動魔法など、技術の一端に触れることすらでき ない段階の魔法だ。必死に頑張っても、手の平大の分身を作 ることすら不可能だ。
 やっぱり自分の足でいくしかない。
 わかってる。わかってるよ、そんなこと。胃がストレスで痛く てねじ切れそうなほどにな!
 けれど、私の足は一向に動かない。
 風の音が聞こえる。物寂しく、聞くだけで身を切る寒風の冷たさ が肌に蘇る音だ。今の季節は初春。しかし、春先にもかかわらず 、時たま冬のように気温の下がった日が到来する。
 今日も朝から寒かったなあ。今は倒れてしまいそうなほど 体温が上がり、暑いくらいだけど。
 宿舎の規律で生地が薄い春服を着るよう決められているの で、この時期、服に対する文句は毎年起こる愚痴の種だ。下 は厚手のズボンと皮ブーツを穿いているので寒くはない。し かし、上は防具との摩擦から体を守るために、上半身全体を 包む汚れの目立たない黒い服と、下着だけだ。防寒対策と発 汗性能向上を両立するために、ぴっちり張り付く上に薄手の作 りだから、体のラインが浮き上がりいつも気恥ずかしい。訓練 中は防具の下に隠れるし、汗をかいてから着替えるのが楽だか ら、利便性がないわけでもないけど。
 あ、そういえば剣を振るために皮手袋を着けているけど 、ぼろぼろだったな。手の平の部分は剣を掴んで振るたびに 摩擦が起こるから、一番最初に駄目になる部分だ。そろそろ 買い換えたいな。
「て、何関係ないこと考えてるのよ、私!」
 扉の前で現実逃避していた自分に、思わず自分自身でツッコミ をいれる。あまりに根性のない駄目人間っぷりに、声を出して しまうほどショックだった。
「バカな一人コントしている場合じゃないわよ。 ・・・ ・ ・・ でも守羅がいなくてよかったわ。こんな無様なところ、 絶対に見られたくないもの」
 パンパンと頬を両手で数回叩き気合を入れなおすと、 睨みつけるように目の前の扉を見つめる。
 するとなぜか、天全教授ではなく、頭の中にはいつもの守羅の 笑顔が浮かび上がった。
 思い浮かべた理由は、無意識だからはっきりとは分からないが 、確実なのは知られた場合に辛い展開が予測されたからではな い。だからこそ、余計に思い浮かべた意味が分からないんだけど。
 守羅は他人の失敗や、無様な姿を話のだしに場を盛り上げる人間 ではない。親しい女友達なら冗談混じりで話のネタにするけ れど、守羅は冗談に使うこともない。たまに勝手なことや変 なことをするが、大抵は人間性、人格者、という点では、そ こらの人間より数段上だ。だから、こんな私を慰めてくれる に違いない。それがなぜかむかつくんだけど。
「そういや、あいつとは細かな性格まで知ってるほど付き合い 長いのよね」
 守羅とは幼馴染で付き合いが長い。なのに、いまだに馬 が合わない不思議な関係だ。仲違いするような激しい けんかをすることはないが、知人以上に仲がよくなることもない。
 友人からは付き合いが長いせいで恋人同士と冷やかされたりする が、とんでもない。誰があんな奴と恋人になるものか。顔はい いし、秀才だし、確かに悪くはないと思う。人間ができてるし 、いつも笑顔で怒っているところなど一度も見たことがない。
 普通に考えれば恋人には申し分ない相手だが、なにか嫌なの だ。だから、付き合いが長いが腐れ縁というだけで、特別な気 持ちなど塵一つ分もない。
 絶対ない。
 ええ、ありませんとも。
 それに、恋人にするなら守羅の持つ利点だけでは物足りない。 年上の男が持つ包容力。これがないといけないと私は思う。 この点で守羅は年上ではあるが、包容力のかけらもない。 ためしに両手を大きく広げ私を抱き締めようと身構える 包容力のポーズを守羅で思い描いてみる。
 うん、下手な踊りにしか思えないな。
 逆に包容力があるかっこいい人といえば、この学園にいる 天全教授だ。今、目の前にある扉の向こうにいるお人だ。お んとし64歳で私と48も歳の差があるが、歳の差など些細な問題 だ。しかも、天全教授は人種の中でも寿命が長い魔人種だから 、見た目は40くらいだし。
「ああ ・・・ ・・・ 天全教授」
 目を閉じ天全教授の姿をまぶたの裏に思い浮かべる。すると、 いつもと変わらない聡明で、端整なお顔が浮かび上がった。
「部屋に入らず何をしているんだい?」
 想像が過ぎて幻聴まで聞こえてきたらしい。声に誘われるまま、 私は目を開いた。
「 ・・・ ・・・ 」
 妄想世界に飛ぶために閉じた目を開くと、 そこには天全教授本人がいた。

次「少女の物語2」へ続く
トップへ戻る

総合掲示板
小説に対する感想、管理人への質問など用。